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歴史の目撃証人――古代史料に見るニカイア公会議
ニカイア公会議1700周年に寄せて · 第2部(全3部)
牧師 Dr. Glen L. Thompson
Wisconsin Lutheran Quarterly第122巻第4号(2025年秋) · 第1部 · 第2部 · 第3部
カイサリアの司教エウセビオス
第二の目撃証人はエウセビオスです。彼はパレスチナの重要都市カイサリア・マリティマの司教としてすでに10年間仕えており、そのためニカイア公会議で最も著名な参加者の一人でした。彼が初めてコンスタンティヌスに会ったのはこの公会議においてであり、またおそらく、後にそのキリスト論を批判する書物を2冊著すことになるアンキュラの司教マルケロスと初めて顔を合わせたのも、そこでのことでした。
彼自身の神学的見解は、アリウスの見解にいくらか共感するものであったため、すでにニカイアの数か月前に、アンティオキアで開かれた60人の司教による会議で譴責を受けていました29。その会議から残っている教会会議書簡は、324年9月半ばのコンスタンティヌスの勝利まで、東方の皇帝リキニウスがその領内で教会会議の開催をしばらくの間禁じていたことを思い起こさせます。だからこそ教会会議が緊急に必要とされたのです。「多くの場所で教会法がないがしろにされ、あるいは軽んじられさえしており、ほかの会議で可決された決議は、一部の世俗的な人々によって完全に無視されてきた」からでした。会議の書簡には、参加者たちが合意した信条とアナテマが含まれています。ただし、それは3人を除く全員の合意であり、その一人がほかならぬカイサリアのエウセビオスでした。その結果として、「教会会議に集まった同労の奉仕者である私たち全員は、これらの人々と交わりを持たず、彼らを交わりに値しない者とみなすことを決定した。彼らの信仰は公同の教会の信仰とは異なるものだからである」と述べられています。
こうしてエウセビオスは、ギリシア語圏の教会全体でも指導的な司教の一人でありながら、疑惑の影を背負ってニカイアに到着しました。身の潔白を示すため、彼は自ら改良版と考える信条を審議のために提出しました。しかし、それは断罪されはしなかったものの、なお不十分とみなされ、結局エウセビオスは、公会議によって作成・承認された、homoousionという語を含む信条に、いささか不本意ながら署名することになりました。その後彼は、なぜ公会議の信条を受け入れるに至ったのかを説明するため、自分の教会と聖職者に宛てて書簡を書きました。エウセビオス自身が、この書簡の中に自分の信条と公会議の信条の両方を保存しています30。
エウセビオスはカイサリアに戻り、14年後に死去するまで同地の司教であり続け、地域の教会会議や著述活動において引き続き活躍しました。ニカイアの10年前、彼は有名な『教会史』をほぼ書き終えていました。後に彼はそれを書き継ぎましたが、324年のリキニウスに対するコンスタンティヌスの勝利までしか扱っていないため、ニカイアについては何も語っていません31。しかし、公会議の後まもなく、彼は頌徳的な『コンスタンティヌスの生涯』の執筆に取りかかり、そこには公会議とその中での皇帝の役割についての記述が含まれています(3.4–24)32。339年の彼の死の時点で未完に終わったこの著作は、神が皇帝を起こし、迫害されていた教会に平和をもたらすとともに、教会を一つにまとめる世俗の支援者とされたという、エウセビオスの確固たる確信を示しています。そのため研究者たちは、公会議に関わるものを含め、コンスタンティヌスの関与、行動、心情についての彼の記述を評価する際に慎重になってきました。
皇帝の伝記という著作の目的にふさわしく、ニカイアでの神学的議論についての詳細は最小限にとどめられ、その代わりに、会議の準備におけるコンスタンティヌスの中心的役割、司教たちへの敬意、議論された主題への積極的な関与、そして公会議後も続いた関わりが強調されています。公会議から約10年後に書かれたものであり、エウセビオスの記述の全体的な正確さを疑う理由はありません。たとえばこの著作は、公会議に関連するコンスタンティヌスの書簡のうち2通、すなわち公会議を開かずに問題を収めようとした324年末のアリウスとアレクサンドロス宛ての書簡と、復活祭の祝い方について新たな全会一致を宣言した公会議後の書簡について、私たちの最古の史料となっています33。
先に述べたように、公会議の神学的側面はほとんど言及されておらず、『生涯』の中にニカイアのキリスト論的側面についての記述を探しても無駄です。しかし、それは予想されてしかるべきことでした。エウセビオスは、ニカイアのキリスト論の強力な支持者には決してなりませんでした。実際、彼はそれを擁護した人々の何人かに積極的に反対しました。公会議直後にアンティオキアのエウスタティオスとの間で2年にわたって行われた論争の中心にはキリスト論があり、それはエウスタティオスの罷免で終わりました。一方、329年頃にアンキュラのマルケロスが、アリウス型の信条を支持し続けるニコメディアのエウセビオスらを批判する小論を書くと、マルケロスもまた、ニコメディアのエウセビオスが議長を務めた336年のコンスタンティノポリス会議で罷免されました34。その時点で、カイサリアのエウセビオスは、なされたことを支持するために急いでContra Marcellum(『マルケロス駁論』)を書きました。さらに、コンスタンティヌスの死(337年)の後にマルケロスやほかの司教たちの帰還が許されると、エウセビオスはマルケロスを批判するより大部の書物『教会的神学について』を著しました。予想されるとおり、これら二つのキリスト論的論考のいずれにおいても、エウセビオスはニカイアにもその信条にも一度も触れていません。そのどちらも、マルケロスが擁護したであろうものだからです35。したがって、ニカイアについての私たちの知識に対するエウセビオスの貢献は、ほぼ全面的に、皇帝の『生涯』と、公会議から彼自身が送った書簡とに限られます。
エウセビオスの記述
それでも、上記の留保を踏まえてもなお、『生涯』はいくつかの有益な目撃情報を提供しています。エウセビオスは公会議についての部分を、次のように述べて書き始めています。公会議が招集されたのは、「ねたみの霊」によって引き起こされたエジプトでの騒動とそこでのメリティオス派の分裂(3.4)、また復活祭の祝い方の相違によって引き起こされた「非常に危険な混乱」(3.5.1)を皇帝が憂慮したためであった、と。当初、皇帝は会議を開かずにキリスト論の問題を収めようとしましたが、「アレクサンドリアのキリスト教徒への彼の書簡は、しかるべき効果を生まなかった」のです(3.5.3)。そこで彼は総会議(σύνοδον οἰκουμενικήν)を招集することを決め、各地から(ἁπανταχόθεν)司教たちを呼び寄せ、帝国の交通制度を利用するよう勧めました(3.6.1)。その結果、著名な教会指導者たちの大集会となりました。「司教の数は250人を超え、長老や執事、その他多くの随行者の数は、まったく数えきれないほどであった」(3.8)。
司教たちは5月中に次々と到着し、皇帝は彼らに日々の糧を提供しました(3.9)。私たちの史料は、主要な問題についてのより公式な討議とともに、非公式な論争も行われていたことに触れています。しかしエウセビオスはこのすべてを飛ばし、6月半ばの皇帝の公式な到着へと直接話を移します。「さて、論争中の問題の最終的な決着のために会議が開かれる定めの日が来ると、各構成員はそのために宮殿の中央の建物に集まった」(3.10.1)。エウセビオスは、この日までにすでに多くのことが行われていたことを明らかにしていますが、会議を招集した皇帝は、最終的な討議にはぜひとも臨席したいと考えていたのです。
集会は皇帝の到着を心待ちにして着席していました。皇帝の随員のうち3人と、ほかの何人かの「信仰の友」がまず入場し(3.10.2)、続いて皇帝自身が「神から遣わされた天の使いのように……敬虔と神への畏れによって際立って」入場すると、全員が起立しました。それから司教たちは皇帝に着席を促し、その後彼ら自身も席に着きました(3.10.3–5)。続いて上座に座っていた一人の司教が立ち上がり、皇帝のゆえに神を賛美し感謝する詩的な演説を行いました(3.11)。エウセビオスはこの歓迎の辞を述べた司教の名を挙げていません。テオドレトスはそれがアンティオキアのエウスタティオスであったと述べ、ソゾメノスはエウセビオス自身の名を挙げています。バーンズはニコメディアのエウセビオスであるとしています。おそらく複数の司教が歓迎の演説を行ったのでしょう36。
次いで皇帝に発言の機会が与えられました。エウセビオスは、ラテン語で行われ、主として東方出身の聴衆のためにギリシア語に通訳されたその演説の要約版(「おおよそ次のような」[τοῖον ἀπέδωκε λόγον][3.11])を伝えています(3.12.1–5)37。その中でコンスタンティヌスは「神の教会内の内紛」を嘆き、「この悪に対する救済策を見いだす助けとなる」ことを願っています(3.12.2–3)。彼は自らの周囲に見る一致を喜び、司教たちに「この瞬間から、あなたがたの間に存在してきたあの不一致の原因を捨て去り、平和の原則を受け入れることによって論争のもつれを取り除き始める」よう促しています(3.12.5)。
皇帝の到着と演説についてのこのかなり詳細な描写に続いて、エウセビオスはその後の議事全体を、簡潔な一段落にまとめています。
[コンスタンティヌスは]会議を主宰する者たちに意見を述べる許しを与えた。そこで、ある者たちは隣人を非難し始め、非難された者たちは自らを弁護し、今度は逆に非難し返した。このようにして双方から無数の告発が持ち出され、会議の冒頭から激しい論争が起こった。それにもかかわらず、皇帝はすべての者に等しく忍耐強く耳を傾け、あらゆる提案を揺るがぬ注意をもって受け止め、時には双方の議論をかわるがわる助けることによって、最も激しく論争する者たちをさえ、次第に和解へと向かわせた。同時に、すべての者に対する温かい語りかけと、まったく知らないわけではなかったギリシア語の使用とによって、彼はまことに魅力的で好ましい姿を示した。ある者を説得し、ほかの者をその論理によって納得させ、よく語った者を称賛し、すべての者に心を一つにするよう促し、ついには、論争中のあらゆる問題について彼らを一つの心と意見にまとめることに成功したのである。(3.13)
これらの討議がどれほどの期間続いたのかは記されておらず、皇帝の役割についての頌徳的な描写は読者の目にも明らかです。彼の記述から確認できるのは、いくつかの点について真剣で白熱した論争があったこと、時にはコンスタンティヌスに直接訴えがなされたこと、そして皇帝が議論を和らげ、合意の必要性へと議論を向け続けようとしたことです。彼がギリシア語を用いたという言及は、おそらく、とりわけキリスト論の討議におけるhomoousios(ὁμοούσιος)という語の選択に彼が賛同したことを指しているのでしょう。エウセビオスはそのことを、先に述べたカイサリアの聖職者宛ての書簡(Dok. 24 = Decr. 33)で、より詳しく記しています。
[コンスタンティヌスは]出席者全員に、それ[すなわちエウセビオスの信条]に同意し、その条項に署名して賛同するよう勧めた。ただし、「同一本質の」[homoousios]という一語を挿入したうえで、である。彼はこの語についての自らの解釈を示し、こう述べた。「彼[御子]が『同一本質の』者であるのは、私たちが自分の体で経験することによるのではない。あたかも御子が御父から分割されたり、切り離されたりして生じたかのように考えるべきではない。というのも、その本性はいかなる肉体的な経験にも服しえないからである。それは物質から成るものではなく、霊的な領域に存在し、体を持たない。したがって、このような事柄は、神的で言い表しがたい概念において考えられなければならない。」以上が、私たちの最も賢明で最も敬虔な皇帝の神学的見解であった。しかし彼らは「同一本質の」という語を加えることに意を注ぎ、次のような声明を起草した。(7)
続いて、公会議が実際に承認した信条の本文を示した後、エウセビオスは書簡の中で次のように続けます。
この定式が審議されている間、私たちは、彼らがどのような意味で「御父の本質から」と「御父と同一本質の」を導入したのかを、確かめるよう努めた。徹底的な質疑と説明を通じて、これらの語の意味が綿密に吟味された。彼らは、「同一本質の」という句は、御子が真に御父から出た方であるが、御父の一部ではないことを示すものだと説明した。(9)
そして、そのすぐ後にはこうあります。
そこで私たちがそれについて考えたところ、御子が御父と「同一本質の」方であると言うことには根拠があることがわかった。それは人間の体のようにでも、死すべき存在のようにでもない。というのは、御子は、本質を分割することによっても、何かを切り離すことによっても、何らかの作用を受けることによっても、変化させられることによっても、あるいは御父の本質と力を変えることによっても、「同一本質の」方なのではないからである(御父の本性にはその存在に始まりがなく、したがって、これらの記述のいずれもそれには当てはまらないからである)。(12)
このようにエウセビオスは、homoousiosを受け入れる自分自身の論拠と一致する形で、皇帝の立場を要約しています。エウセビオスが皇帝の論拠をどれほど正確に再現しているかについては多少懐疑的になってもよいでしょうが、この証言は、皇帝が実際に神学的議論に加わり、しかもこれらの問題についてかなりの予備知識を持っていたらしいことを示しているように思われます。ここでも、彼の関心は健全なキリスト論に到達することだけでなく、一致と調和が達成されることにありました。
続いてエウセビオスは、『コンスタンティヌスの生涯』における公会議の記述を次のように締めくくっています。
[討議の]結果、彼ら[司教たち]は信仰に関して一致しただけでなく、復活祭の祝日を祝う時期についても全員の合意が得られた。全員が合意したそれらの点は文書にも記され、各構成員の署名を受けた。そこで皇帝は、こうして教会の敵に対して二度目の勝利を得たと信じ38、神をたたえる凱旋の祝典を催した。(3.14)
「全員が合意した」点、「文書に記された」点とは、信条だけでなく、現存する公会議の20の教会規定でもありました39。その後コンスタンティヌスは、自らの治世20周年を祝う豪華な祝宴と祝典にすべての司教を招き、一人ひとりに自ら贈り物を与えました(3.15–16)。最後に皇帝は、「自らの筆で」「諸教会」全般に宛てた書簡をしたため、公会議の決定を知らせました。ここでエウセビオスはその書簡の全文を収録していますが、それは主として、合意された復活祭の祝い方の方針に関するものです(Dok. 30; 3:17–20)。エウセビオスがアリウスに関わる皇帝書簡を付け加えていないことに注意してください。ここでもまた、『生涯』は公会議について含めている内容よりも、省いている内容のゆえに批判されうるのです。
エウセビオスは、司教たちが帰途に就く前に皇帝が最後の演説を行った様子を述べて締めくくっています(3.21)。この記述の前に書簡の本文を挿入することによって、エウセビオスは、出席していなかった司教たちに配布するための書簡の写しを司教たちが持ち帰ったことを示唆しているようです。エウセビオスはこの告別演説の要旨を伝えていると主張しています40。予想されるとおり、皇帝は再び調和、一致、謙遜の重要性を強調しています。そしてエウセビオスは、そのとおりになったと記しています。「それ以来、彼らが皇帝の面前で到達した判断の一致は保たれ続け、長く分裂していた者たちが、同じ体の肢体として結び合わされた」(3.21)。
しかし、彼は『生涯』のまさに次の節で、この楽観的な評価を修正せざるをえなくなります。そこで彼は、エジプトでは「容赦ない争いがなお荒れ狂い、再び皇帝の平穏をかき乱すほどであった」ことを認めており、さらなる皇帝の関与と書簡が必要となったのです(3.23)。
第3部に続く →
注
29 Dok. 20。この会議は324年の最後の数日間か325年の最初の数日間、あるいはその両方にまたがって開かれたに違いありません。その教会会議書簡のシリア語写本が1905年にエドゥアルト・シュヴァルツによって「Zur Geschichte des Athanasius, V.」, 272–79頁(シリア語本文と逆翻訳したギリシア語訳。再録:Schwartz, Gesammelte Schriften, 3:136–43)で公刊されるまで、この会議は記録に知られていませんでした。引用は第4節と第14節からです。会議の信条は第8–12節にあり、アナテマはそれに続く第13節にあります。
30 エウセビオスの書簡はDok. 24 = Decr. 33。彼の信条は第4–5節にあり、公会議の信条は第8節にあります。
31 T. D. Barnesは、第1–7巻が3世紀末までに書かれ、第8–9巻が大迫害の後、313/314年に加えられ、第10巻がその後まもなく加えられたが、後に更新されて324年のコンスタンティヌスによる帝国の最終的統一で締めくくられるようになったと論じています(Constantine and Eusebius [Cambridge, MA: Harvard University Press, 1981], 126–50頁)。
32 3.4–24。Vit. Const.を執筆していたのとほぼ同じ時期に、彼はContra Marcellumも著していましたが、これもキリスト論に関わるものです。この著作の中で彼は公会議を直接描写してはいませんが、公会議以前の論争からのいくつかの抜粋(Dok. 5, 10, 21)がこの著作に保存されており、5と21はこの形でのみ残っています。
33 Dok. 19 = Vit. Const. 2.64;Dok. 30 = Vit. Const. 3.17–18。
34 マルケロスはまた、335年のテュロス会議によるアタナシオスの罷免を受け入れることも拒否しました。
35 Contra Marcellumは、公会議以前のDokumentenのうち2、3の文書の典拠となっています。マルケロスからの長い引用の中に、パウリヌスの書簡(Dok. 5)とナルキッソスがクレストスらに宛てた書簡(Dok. 21)からのいくつかの引用、そしてエウセビオス自身がバラネアのエウフラティオンに宛てた書簡からの抜粋(Dok. 10)が埋め込まれています。
36 テオドレトスEccl. hist. 1.7.10、ソゾメノスEccl. hist. 1.19.2、T. D. Barnes, Constantine: Dynasty, Religion and Power in the Later Roman Empire (Chichester: Wiley-Blackwell, 2011), 121頁。Averil CameronとS. Hallもニコメディアのエウセビオスを選んでいるようで、それが章の見出しにあると述べています(Eusebius: Life of Constantine [Oxford: Clarendon, 1999], 265頁)。しかし、諸版には章の見出しがなく、F. Winkelmannの標準版(Über das Leben des Kaisers Konstantin, 第2版, GCS, Eusebius Werke 1.1 [Berlin: Akademie-Verlag, 1991], 8頁)では、κεφάλαια(章目録)には「司教エウセビオス」としかありません。また、ニコメディアは近隣の重要な司教座であり、コンスタンティノポリスがまだ建設中であった間にコンスタンティヌスが長く滞在したもう一つの皇帝の宮殿の所在地でもありましたが、その司教(先に見たようにリキニウスの支持者であった)と皇帝との関係からすれば、彼がこの務めに自然に選ばれたとは考えにくいでしょう。同じ年の初めのアンティオキア会議以来、疑惑の影を背負っていたカイサリアのエウセビオスも、候補者としてはありそうにないように思われます。したがって、おそらく三人のうちではアンティオキアのエウスタティオスが最も可能性が高く、あるいはそのような演説が二つあったのかもしれません。
37 出席した220人の司教の名簿を分析すると、約90パーセントがギリシア語圏、5パーセントがラテン語圏、5パーセントがシリア語圏から来ていたことがわかります。
38 エウセビオスの伝記は、対立する皇帝リキニウスがコンスタンティヌスの打ち負かした最初の敵であり、また教会の敵でもあったことを明らかにしています。
39 アクイレイアのルフィヌスは、エウセビオスのEccl. hist.をラテン語に翻訳し、さらにニカイアへの言及を含む2巻を追加して拡張しました。教会規定を保存した最初の人物は彼ですが、各規定の要約を示したにすぎません。475年頃に編纂された『著者不詳教会史』が、教会規定の完全な本文を伝える現存最古の史料であるようです。
40 τοιαῦτα μὲν ἐν πρώτοις παρῄνει, τέλος δ’ ἐπετίθει τὰς ὑπὲρ αὐτοῦ πρὸς τὸν θεὸν ἱκετηρίας ἐσπουδασμένως ποιεῖσθαι(3.21)。

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